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2006年 01月 20日
ヌボテと抒情
金澤一志 ■一滴の林檎 まずひとつ詩をみてください。 詩人の家 月草の花が明かるく咲いてる 鎌倉のとある町はづれに 若い詩人が住んでゐた 白い象牙の鳥かごに ものいふ鳥を飼ひながら ルビイのやうな詩をかいて たばこをすつて住んでゐた たばこをすつて詩をかいて ベレをかぶつて住んでゐた ちひさなまるい屋根がある 詩人の家の煙突は 細くてながくて美しい お昼になるとベルがなり ばらいろの うすい雲がながれてゐた 新書館の「フォアレディース」にでも掲載されていそうですが、そんな最近の詩で はありません。終戦翌年の1946年に発表されたものです。書いたのは北園克衛、発表 は詩の雑誌ではなく「少女クラブ」でした。あえて言えば少女詩、ということになる のかもしれませんが、広義の「抒情詩」のうちにはいるでしょう。 北園克衛が抒情的な詩(というか、芸術的な側面を無視した詩)を書いていたこと はよく知られています。魔がさして書いてしまったとか、若気のいたりだとかのレベ ルではなく、本気で確信的に書いています。数もひじょうに多い。硬質で感情を排し た詩、いわゆるオブジェっぽい詩の作者として名を馳せている詩人であることを考え ると首をひねりたくなるかもしれません。でもぼくは抒情(ロマンチシズム)こそが 北園克衛の中心をつらぬく芯棒だと考えています。 なぜこんな詩を持ち出してきたのかというと、タイミングのことを言いたかったた めです。北園克衛にはあきらかな行動パターンがあり、なにか重要な決意をするとき、 姿勢をただすときにまず甘ったるい詩を発表しているのです。つまり、この詩が発表 されたころ、1946年の夏なのですが、詩人はなにか重大な局面をむかえていた。もち ろんそれは終戦直後の混乱からの脱出、すなわち戦後の開始というものでありましょ う。その真剣さをもっと単刀直入にしめしているものがあります。 僕はスヰスの時計師のやうにやつていくつもりである。 教訓やレクチユアはふさはしくない。いつもよそよそ しく、気むづかしく、しかも心をリキユウルのやうな 状態で置きたいのである。 1946年に詩誌「ルネサンス」に書かれた「一滴の林檎」というエッセイの一部です。 ビッときまった一文だと思いませんか。目にした北園克衛の散文のなかで、ぼくは 「一滴の林檎」がいちばん好きです。けっこう長いエッセイなのですが、どこを切り 取っても胸キュンのフレーズにあふれています。 終戦後は日本中がたいへんだったと思いますが、北園克衛にもロクなことがありま せんでした。まっさきに詩雑誌を創刊したかと思ったら円封鎖でカストリになってし まう。自由に発言できるようになったと思ったら、世代がひとつ繰り上がっておぢ軍 団にはいってしまっている。なによりお金がありません。リトルマガジン以外に表現 の手段を考えたことがなかった北園克衛にとって、雑誌を出すことができない状態は サイアクです。まさに踊れないダンサー状態。苦労が続くなかで気をとりなおし、ちゃ んとやるんだ、やらなきゃいけないんだと決意したのが「一滴の林檎」なのです。こ の文章はこんな風に終わっていきます。 あかるい希望がたえず現はれては消えていく。その あるかなきかの陰影に影響されながら、軽いポオス レンのパイプをくゆらせて鮮麗な柿の若葉にむかつ てゐると、十年間の疲れがしみじみと感じられてく る。(略)たとへば極地に降りたつたドクトルアム ンゼンのやうに、新しい知性の陵角をのぞみながら、 しだいにそれが僕のイデエに共感しつつ近づいて来 るのを、なかば醉ふやうにかうしてあることの悦楽 を、全身をもつて経験してゐるのである。 カッコいいじゃないですか。こういう文章は太陽がカッと照った昼間に書けるもの ではありません。初めて「一滴の林檎」を読んだとき、ぼくは人間には夜とか闇とか 孤独とか雨の日が必要なんだ、と思いました。 ■北園克衛=ラヴェル説 「スイスの時計師」ということば、これは北園克衛のことばではありません。あの 「プラスティック・ポエム」のマニフェストにもリシツキーの台詞を取り込んだ北園 克衛は、実は引用の名手でありました。さすが寺山修司の師匠!(サンプリングのセ ンスは師弟ともにバツグンですが、リミックスの気品では師匠に軍配があがるように 思われます) 《スイスの時計職人》と言ったのはストラヴィンスキー、言われたのはモーリス・ ラヴェルです。無駄をきらい、洗練(節約ともいう)の音楽家として知られるラヴェ ルは、気難しそうな想像に反して、やさしさと気配りをもったおだやかな人だったと 聞きます。 北園克衛をほかの芸術家にたとえたらだれになるだろう?と考えたとき、ぼくが思 いうかべるのがラヴェルなのです。次点が未来派のルッソロあたり。多芸というとこ ろからよく比較されるコクトーはぜーんぜんあたってないと思います。あっちは今を ときめく秘密結社の親分ですよ。サティともよく比較されますけども、それは北園克 衛がサティにあこがれていて、いろいろなところで名前を出したり引用したりしてい るから現れる表面的な印象でしょう。アルクイユしかり、『天の手袋』の《Cher Ami! 最後まで譲ってはならない》しかり、あと「消えていくサラバンド」とか「ジャ ズのための三つの短詩」「ソルシコス的夜」なんて全部サティの曲名のつけかたをま ねているようにみえます。 北園克衛には、サティの「新しさ」がまぶしく映ったのではないでしょうか。とく にフランスっぽい芸術優先の気骨に(サティにはスコットランドの血が流れてはいま すが)素直なあこがれを抱いたのだと思います。ことばの視覚化から音楽化のプロセ ス、なーんていう小さなことではなくて、そこにあって息をしている、という新しさ のエロスに対してです。 ラヴェルもまたサティの「新しさ」に心うたれた人でした。後年にはサティやコク トーにめちゃくちゃな皮肉を言われる事態にも陥りますが、それでもラヴェルはサティ が好きだった。どんな経緯があっても心をひかれた事実は変わらない、自分の関心に だけは最後まで忠誠をつくす、ラヴェルと北園克衛にはそんな頑迷さがだぶってみえ ます。ラヴェルがサティにひかれ続けた構造は、北園のそれとよく似ていたのではな いかしら、と思えてなりません。 日本では、1925年にはじめてラヴェルの曲(「クープランの墓」)が日本人によっ て演奏されたといわれています。またこの年にはフランスの音楽家ジル=マルシェク スが来日し、帝国ホテルで「クープランの墓」「雨のガスパール」とともに、サティ やミヨーの曲を演奏したそうです。(船山隆、「音楽芸術」1975年6月号)実際には、 いつ北園克衛がサティの曲を聴いたのかはわかりません。もしかするとずっと後年ま で機会はなかったかもしれません。でも、曲を聴かずに北園が「サティが好きだ」と 思ってもぜんぜんふしぎはありません。北園はいつだって「新しさ」が投影される存 在、つまり「ヌボテ」そのものを愛していたのですから。 ■高橋悠治の抒情 ぼくはバブル世代で、西武・セゾン文化のドまんなかを泳いできました。1980年代 のキーワードのなかには、どーんと大きく「エリック・サティ」があります。 もともとはブライアン・イーノが導火線だったと思いますが、いつのまにか「家具 の音楽」(お金がないサティのピアノ弾き時代に、カフェの客が自分の演奏になど耳 を貸さない、つまり自分のことを家具と同じようにしかみていない、ということへの 諧謔が反映されているという意見に大賛成です)が「環境音楽」の先達と定義された から、流行したのです。当時ぼくはジャン・ジョエル・バルビエのレコードと、ペン ギンカフェ・オーケストラのレコードを一緒に買ったことをおぼえています。みんな その程度の認識だったから、プロの音楽家がいろんなところでずいぶん怒ってました。 イーノ、環境音楽、ケージ、そのあたりがアートの流行にとりこまれて、二十世紀 音楽そのものが見直された時代です。ライヒとかブーレーズ、シュトゥックハウゼン。 いやーかたっぱしから聴いてました。めちゃくちゃです。ぼくは瀧廉太郎や山田耕作 までいっちゃいました。流行は民族音楽とか70年代のコンクリートにまで及んで、 「チベットの鐘」というエコー満載のレコードをヘッドフォンで聴いていたら三半規 管破壊されて気持ち悪くなった、なんてこともありました。そういえば、CDからMP3 の時代になってレコード屋さんの袋を持ち歩くこともなくなりましたね。あれは品の いいファッションアイテムだったな。 80年代的な音楽キーワードのなかには、もちろん高橋悠治という名前が燦然と輝い ているわけです。でも、ぼくが聴いたコンサートでは、高橋悠治はいつもショパンと かバッハを演奏していたように思います。なんであの選曲なんだろって思いました (みんな言ってた)けど、いまならうっすら理解できるような気がします。 武田明倫によれば、1970年の万博「スペース・シアター」で、高橋悠治は「作曲家 の母になりたい」と発言したそうです(「音楽芸術」1971年7月号)。発言はこう続 きます。 人類の歴史はいつの日にか終わり、異なる知性が人 類の存在にとって代わるときがくるだろう。そのと き、その新しい知性が音楽を作曲できるように、そ の道を開いておきたいと思うのだ。音楽とは抒情的 (emotional)なシステムであり、それはすばらし い存在なのだから。抒情的なシステムであるという ことは、それがひとつのシステムとして自己防衛本 能をもつものであると同時に、外の世界に対して開 かれているということなのだ。 また後日、高橋悠治本人によって、後半部分が修整されました。 抒情的であるとは、外の世界に関心をもつことがで きる、ということなのだ。 武田明倫はこう結論付けます。 高橋悠治の「演奏」は「抒情的なシステム」の存在 を前提として成立する。あるいは、「自己防衛本能」 をもち、同時に「開かれた」存在である、そうした 作品のみが、彼の「演奏」という創造行為を可能に するのだ、といってもよい。そのような作品におい て、高橋悠治は自在なのだ。 どうです、膝を打ちたくなる考察です。高橋悠治がバッハやベートーヴェンを演奏 する理由がなんとなくわかりますでしょ。同様に、北園克衛を演奏するという行為に ついても。 さて、今回の高橋悠治の「KitKat Mix」(正確には「KitKat Mix--北園克衛の4つ の詩−「記号説抄」「熱いモノクル抄」「送行」「消えていくpoesie」(computer sound file) )」ですが、初演ではありません。2003年の暮れに開催された「高橋悠 治による北園克衛と足立智美による新国誠一」(経堂・アペル)が最初でした。 2002年の「北園克衛生誕100年記念コンサート」から今回の「高橋悠治、渋谷毅に よる『PLAYS 北園克衛・ERIK SATIE』」までの三年間をかけて、高橋悠治は北園克衛 の存在を抒情的なシステムとして把握し、取り込んでみせた、ということになります。 最初の「100年記念コンサート」では、高橋悠治は直前に欠席したわけですが、不在 ゆえに存在感が際立ち、2005年まで関心を継続させる伏線となっていたことはまちが いありません。欠席はしたけれども籍は置いていたのです。 欠席から出席まで、ピットインの両端をつなぐ線のうえに経堂の小さな会場がある ことはとても重要です。北園克衛という素材を取りあつかうためのスタンスが見えて くるからです。2003年の「高橋悠治による北園克衛と足立智美による新国誠一」の企 画者は松井茂。足立智美ともども若い世代です。ピチピチです。彼らの世代は北園克 衛の機能主義的な側面を評価する一方で、日本語で書かれた従来詩であるかぎり、余 分をかかえている、重さがある、と考える傾向が強いようです。だから、足立智美が 北園克衛を素材とすることなどできるはずもなかった。おたがいの「自己防衛本能」 がバッティングするのです、たとえばATフィールドのように。日本の詩作品から選ぼ うとするなら、要素を音韻的に抽出した新国誠一こそ足立智美の「演奏」にふさわし い。というより、ほかには候補すらなかったはず。見方をかえると、高橋悠治の抒情 的なシステムは北園克衛「すら」取り込むことができた、ということになるでしょう。 高橋悠治は、シェーンベルクら西欧の音楽家によって徹底的に近代化された二十世 紀音楽のなかに、抒情(前近代的ということではなく)を加えることで二十一世紀音 楽のヒントを模索しているのではないかと思います。それには北園克衛の日本的な、 日本語的な微妙な重さが、むしろとても具合のいいものなのかもしれません。 2005年 12月 20日
ある午後のヴェクサシオン
岡崎英生 音楽はそれが鳴り響いている現場に、その日その瞬間に生成し消滅しているものと不可分の関係にあるのだから、運悪く聴き逃してしまった場合にはもはや絶対に取り返しがつかない。ということは重々わかっていても、どうしてもその現場に足を運ぶことができないということはやはりある。2005年10月25日に新宿ピットインで『高橋悠治、渋谷毅によるPLAYS 北園克衛・ERIK SATIE』というコンサートが開かれたときも、あるやむを得ない事情から私はどうしてもそれを聴きに行くことができなかった。 それで、くやしまぎれにあれこれと考えているうちに思い出したのが、20年ほど前、青山のとある会場でサティ弾きとして名高い島田瑠里さんのピアノでサティの「ヴェクサシオン」を聴いたときのことだ。ごく単純な短い旋律を作曲者の指定によって840回繰り返して演奏するというこの曲は、ジョン・ケー ジの「4分33秒」の対極にあるような作品として名前だけはよく知られているが、実際に演奏される機会はほとんどない。この曲を収録したCDも、私の知る限りでは島田さんのものが1枚あるだけで、それもわずか12分程度の演奏だから完全な演奏とはいえない。ところが、青山でのそのコンサートのときは島田さんが840回を最後まで完全に弾き切ったのだ。 なぜ840回なのかということは、特段問題とするには当たらない。とにかく840回なのである。けれども、それを実際に繰り返すときには演奏家自身に回数を数えながら弾けと要求するのはあまりにも酷なので、いま何回目にさしかかったかをカウントする介添えの人が必要になる。青山でのときは島田さんの友人や知人たちがカウント役を務めることになり、その一人として選ばれたのが前述の新宿ピットインでの高橋悠治さんと渋谷毅さんによる北園サティ・コンサートを企画した奥成達氏だった。 そのころ、私は奥成氏に誘われて、いまはなくなってしまった渋谷の「ジァンジァン」に三宅榛名さんのコンサートを聴きに行くようになり、それがきっかけとなって音楽の聴き方がそれまでとまったく変わってしまい、三宅さんや高橋悠治さんのコンサートがあるたびに足を運ぶようになっていた。故武満徹が渋谷のパルコ劇場で毎年開いていた現代音楽のイベントでジョン・ケージのレクチャーコンサートを聴いたりしたのもそのころのことだ。もちろん、何が何やら、全然わからなかったのだけれど。 で、ある日、奥成氏がサティの「ヴェクサシオン」が演奏されるから聴きに行こうというので、私はほとんどふたつ返事で一緒に行くことにしたのだったと思うが、いまや曖昧になりかけている記憶では、それは9月の、まだ残暑がしつこく続いていた日の、午後早い時間だったような気がする。会場は音楽専用のホールではなく、大きなビルのだだっ広いエントランスのようなところだった。そこに臨時にピアノと椅子が並べられ、聴衆が着席して演奏が始まるのを待っていた。やがて島田さんが登場し、「ヴェクサシオン」の第1回目を静かに弾き始めた。それはいかにもサティ的な、ある種の物悲しさをたたえた美しい旋律だった。 しかし、その基本のピースはごく短いものなので、弾き始めたかと思うと、もう終わってしまう。そこで2回目、同じ旋律がふたたび演奏され、それもまたたちまちのうちに終わってしまい、3回目、4回目、5回目……。客席ではそのたびに誰かが立ち上がり、鍵盤に向かって演奏をつづけている島田さんのそばまで歩いて行って、数字の書いてあるカードをそっとめくる。そして、自分の席に戻ってきて、演奏にまた耳を傾ける。 奥成氏も何回目だかにカードをめくりに行き、「ヴェクサシオン」の演奏はそんなふうにして延々と続いていったのだけれど、何しろ、ひっきりなしに客席とピアノの間を人が行き来するのだから、時には椅子がきしむし、床には靴の音が響いたりもする。加えて、おそらくそうしてもいいということになっていたのだろうと思うけれど、演奏の途中で会場から出ていってしまう人もいるし、逆に、何だか変なことをやっているぞ? という感じで入ってきて、新たに聴き 始める人もいる。 だから、そのたびに会場の扉が開いたり閉まったりして、青山通りの雑踏の気配が会場にどっと流れ込んできたり、それが急に遮断されて、また静かなピアノの音だけになったりする。要するに、普通のクラシックのコンサートとはまるで違う。ところが、どういうわけかその日はそれがいっこうに不都合でも不快でもなく、会場内に響く遠慮がちな足音も、青山通りの騒音も、何もかもが島田さんの弾くピアノの音と混じり合い、親和して、いわばその全体がひとつの音楽としてそこに鳴り響いていたのだ。 それは心地よく開放的な、思わず微笑を誘われてしまうような性質の音楽だった。基本となっているのが物悲しく美しい旋律なので、それを展開してもっと長大な、もっと堂々たる表現を行うこともできそうではある。けれども、サティはそうしない。彼は完成された作品や完全をではなく、むしろ断片や不完全を志向する。840回という繰り返しはそのためのもので、この数字自体には意味はない。それはたぶん、既製品の便器に「泉」と命名するようなセンスで選ばれている。 別の言葉でいうと、「ヴェクサシオン」ではその物悲しく美しい旋律がある種の意味を持ちそうになった瞬間に、その意味が棄却され、音楽がそもそもの始まりへと折り返していく。絶え間ない棄却と、絶え間ない始まりへの折り返し。そこにデュシャンならばアンフラマンス(超薄膜)と呼ぶだろうようなものが発生し、人を微笑へと誘う。人によっては微笑しながら、そのひっきりなしの折り返しに北園克衛の詩句のありようを重ね合わせたりもするかもしれない。 島田さんがあの日、840回を弾き終えるまでにどれぐらいの時間がかかったのかはもう記憶にないが、いずれにしてもそういう音楽が鳴り響いている現場に居合わせることができたのは、きわめて幸運だったと私は思う。しかし、初めにもいったように、いろいろな要因が重なってそういう幸運が目の前からするりと逃げていってしまう場合も多々ある。それは人の生に常に意地の悪い妖精のようにつきまとっている小さな不幸せとでもいうべきもので、私たちは折にふれて種々の悪さを仕掛けるこの悪戯者の妖精と縁を切ることは決してできない。 ____________________ *「Emma」1980.8.6(奥成達資料室より) p64 「同一のフレーズを840回も弾くというエリック・サティ作曲の「ヴェクサシオン」に挑戦した、ピアニストの島田瑠里さん。午前11時から12時間弾き続け、見事に成功。かけつけた友人達と祝杯を傾けた。黒いドレスが島田さん。(7月11日、青山・ガスコン) 2005年 11月 28日
10.25のライブ当日以前にこのブログにお寄せいただいた原稿をまとめて、小さな冊子にしました。お書きいただいた10名のみなさまに一刷を、ほかのgui同人のみなさまに二刷をお送りしました。印刷 by エプソン家庭用プリンタ。紙の選択や表紙のレイアウトなどは気紛れに変えていますことをご了承ください。
開演後篇をぜひ作りたいです。当日ご覧になったかたなれなかったかた、guiの同人であろうがなかろうがいずれもかまわず、お寄せいただけたらうれしい。 ![]() 2005年 11月 01日
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奥成達 コンサート、おかげさまにて盛況に終りました。聴衆はおよそ130人余といったところか。予約入場者数95名。ピットインの椅子席は80ぐらいだから、あとは補助椅子、立ち見の人になる。 顔ぶれは見知った方々が多く、「VOU」の先輩、詩人の清水雅人、写真家の岡崎克彦さん。いま紀伊国屋書店の「ifeel」で「戦前の紀伊国屋書店」の連載をされている石神井書林の内堀弘さん。次号(No.35)には、北園克衛が登場してくるはずである。女性詩人3人組で、平田俊子、筏丸けいこ、岩崎迪子さん。北園俳句に興味津々のようだった。國峰照子さんと一緒に中本道代さん。藤富保男さんと一緒に「フランス六人組」の演奏で知られるピアニスト・神武夏子さん。いつも北園のコンサートには必ず顔を見せてくれる亀倉雄策さんのチーフ・デザイナーだった水上寛さん。なんと10人の友人たちを誘ってやって来てくれた。詩人の菊池肇さん、中村恵一さん。BUSバンドのアイドルだったきよみちゃん。入口でCDと一緒に「gui」のバックナンバーを販売していただいた八巻美恵さん(guiは一冊1000円で3冊売れました)。葉山の友人の音楽プロデューサー、岩神六平さん。チラシ配りやブログでお世話になった四釜裕子さん。「ふらて」のママ・ヒロミさんと常連のお客さんたち。北園克衛の造型詩を集めた『カバンのなかの月夜』(国書刊行会刊)の著者、金澤一志さん。渋谷毅の「エッセンシャル・エリントン」のプロデューサーの望月由美さん。電通の中島興三さん。かつて賀陽亜希子さんの『フランス詩人によるパリ小事典』の装幀をされていたデザイナー・田渕裕一さん。青山学院大4年生・日本文学専攻の蓮見勲さん。下北沢「LADY JANE」の大木雄高さん。 もっとたくさんの人々とご挨拶したはずだが、失念してしまった。小中陽太郎さんも有難うございました。 コンサート終了後、酒場「ふらて」で、吉田仁、高橋肇、岩田和彦、奥成繁のguiメンバーと、かつての新宿の酒交、沢田節子、加藤恵理子、多田佳代、山村千恵、斉藤茂男さん、それから「プレース・エバン」のママ、小田悦子さんたちと、ささやかに打ち上げをした。 12時をまわり、みんなが引き上げた後、写真家の北島敬三さんと2人きりになり、今夜のコンサートはどうでしたか?と感想をたずねた。「高橋悠治さんの凄さというものを、あらためて目の当りにすることができて大感動した」といわれた北島さんは、相当の音楽ファンだったが、渋谷毅トリオのドラム・外山明のイントロにおけるシンバルワークに、一瞬、富樫雅彦を彷佛とさせるものがありゾクッとさせた、と語るジャズ通でもあった。「でもイントロのところだけだったけどね」(笑)とも。 「ふらて」はいつも閉店2時なので、バーテンのウップはさっさと帰ってしまった。しかし、ママのヒロミさんも入ってきて、音楽談義はいっこうに終らず、とうとう3時過ぎまで盛りあがってしまった。楽しかった。 考えてみると昔は毎晩どこかの酒場でこうやって過ごしていたんだなと思い出し、懐かしい気分になった。やっぱり新宿は、いつやって来てもいいな。 一寸努力をすると、こんなに楽しい一日が過ごせるということをあらためて確認をした。いまおかげで疲労困憊しているけれど。 さて、今度のブログのエッセイは皆面白かったけど、宗清友宏さんの「ノート」には感動しました。 コンサートの感想は、むしろ当日おみえになった皆さんにぜひお聞きしたいものです。「コンサート後篇」というエッセイをぜひ寄せて下さい。楽しみにしてます。 ____________________ *紀伊国屋書店「ifeel」 *神武夏子さんのホームページ *BUSバンド *『カバンのなかの月夜 北園克衛の造型詩』金澤一志 *JAZZ SHOPPING(試聴可)/「エッセンシャル・エリントン」渋谷毅 *LADY JANE *photographers' gallery(北島敬三さんらの共同運営ギャラリー) 2005年 10月 26日
第一部
高橋悠治さんによる ピアノソロ(サティ) KitKat Mix 北園克衛のカッパ俳句朗読×渋谷毅さん(p) 第二部 渋谷毅トリオ=渋谷毅(p)、望月英明(b)、外山明(ds)による演奏(サティ) 終了後「こんなもんだ」by渋谷さん→詳しくはこちら 高橋悠治さん(p)加わりセッション 詳細は追ってご報告します。(四釜) # by gui_info | 2005-10-26 23:55
2005年 10月 15日
北園さんがサティを聴いた朝は、 (ノート)
宗清友宏 現在は、すぐにCDも手に入り、サティもさりげなくTV・CMなどに流れている。音楽を聴くという環境において、当たりまえな手軽さに満ちている。それはいわば「早く来すぎた人・サティ」の遍在している時代ともいえる。彼の「家具の音楽」の発想は、今、至る所に背景音楽としても生きている。(或いは、イーノなどの硬質な環境音楽として)。また我々は、今回の「PLAYS」のように特別な機会も含めて、時々の演奏会でサティの美しい旋律を体験することもできる。こうしたメディアに恵まれている時の中から、ふと振り返って確認したくなるのは、「アルクイユのクラブ」を呼称するほどにサティに「共鳴」していた1932年の北園克衛が、どんなふうにサティを聴いていたのだろうということである。 その一年前、北園はエッセイにおいて銀座での生活をこう描いている。 僕が銀座に住むと言うことは単に事実に過ぎない。ロマンチズムなんか 薬にしたくもない。サラマンジェ・ウオハルで食事を取ることに過ぎぬ。 (中略)。美しく晴れた午前十時三十分。閑散と白い白い銀座。スズカケ の鮮明な緑の列をフロレンス硝子の外に見つつ、清潔なテイブルの最初 の客として朝のパンと水とコオシイを誂えるのが単に僕の趣味としても 僕等には午後の銀座、夕暮の銀座、夜の銀座はクダラナイのであるいつ でも。 (「夏の銀座」『天の手袋』1933年7月発行) 1931年の夏、そうして北園は銀座にいた。たぶんここは普通の喫茶店であろう。しかしこの朝の簡単な食事の光景の中に、ふと近くに置いてある蓄音機などから「ジムノペディ」が偶然流れてきたとしても可笑しくはない時代に入っている。その背景、或いは周辺部分を、ここではノートしてゆく。 まずSPレコードから確認する。ここでもやはり大切な文献である坂口安吾訳の「エリック・サティ (コクトオの訳及び補註)」(『青い馬』創刊号、1931年5月)において、安吾が丁寧に補註としてあげている五枚のレコードがあり、北園が銀座に住んでいた頃には具体的にこうしたレコードが洋楽の輸入盤として日本でも手に入った。(略記する。字の細かい異同は原文のまま。『定本 坂口安吾全集 第十三巻』冬樹社版) 『ジムノペディ、一番』ビクタア。ボストン交響樂團演奏、クセビイツキ指揮。 『私はお前を求める』佛グラモフォン。ヴィーネの伴奏でイヴォンス・ジョルジュが吹き込んだ歌謡曲。今は絶版となっているそうである。 『私はお前を求める』のピアノ曲。フランス・コロンビア、ヴィーネの独奏。これは最近の吹込みで、無論絶盤ではない。 『三つのメロディ』フランス・コロンビア、一九三〇年二月発売。ジャーヌ・バトリ夫人がダリウス・ミロオの伴奏で歌った歌謡曲。 『調子を調えた三つの小曲』フランス・コロンビヤ、フランスコロンビヤ専属交響管絃團をピエール・シャニヨンの指揮せるもの。後の二つを私はきいていない。 洋楽の輸入SPレコードは、当時かなり値段が高かった(約5〜7円)。しかし日本での海外原盤によるプレスも1927年以降、日本ビクターや日本コロンビアなどから次々に販売が始まっていて、値段も少し安くなっている(約3〜4円。普通の邦楽、流行歌などは1円50銭)。むろん蓄音機の普及もかなり進んでいる。また、ここで安吾があげているのは輸入盤であるが、1931年前後には、国内プレス盤として、クラシックの大家に混じりドビッシーやラヴェルの曲のレコードもわりと出されていて、この時期にサティの国内プレス盤も、或いは出されていた可能性もある。しかし私の確認出来たのは少し時代が下がる次の二枚のサティのみで、これは参考として見ていただきたい。1940年『ジムノペディ第2番』日本ビクター、ストコフスキー指揮・フィラデルフィア管弦楽団。1941年『三つのメロディ』日本コロンビア、バトリによる、「三つのメロディ」とダリウス・ミヨーの曲「三つの詩」。この二枚は戦争の始まる直前である。こうした時期に、枚数は激減したといえどもレコードが出され続けているのはすごい、しかもサティである(『証言 日本洋楽レコード史 戦前編』歌崎和彦 編著 音楽之友社)。またこの他に明確な発売年は分からないが、サティ研究の秋山邦晴によると次の一枚も戦前までには出されている。『ジムノペディ第1番』日本ビクター、クーセヴィツキー指揮、ボストン交響楽団。これは安吾のあげた輸入盤の原盤から国内プレスされていると思われるもので、或いはこの一枚はかなり早い時期に出ている可能性も高い。 さて、この状況から見えることは、まずサティの輸入盤レコードはかなり高いけれども、音楽喫茶などが普及し始めていた頃であり、北園は、これらのSPレコードを1932年までには、どこかで聴いていたのではないかという推測である。或いはサティの曲の演奏会を、どこかで聴いていた(?)。ここでは実際に「聴く」ということが大切なのだ。コクトオ経由の言葉によるサティよりも、実際に聴くこと、そこから始めてサティの美しさ、「単純で精緻な作風」が強く印象されていったのだろう。そうでなくては、「アルクイユのクラブ」という名称を生半可に使うはずがない。ただ、1920年代後半から30年代始めにかけて、SPレコードによる、この4曲以外に具体的に、どの曲まで北園は聴く機会を持てたのだろうという思いは残る。どのくらいサティの全景を、この時期にインプット出来ただろう。ここで少し当時のサティ演奏会のことを見てゆくが、やはりその数はかなり少ない。まず秋山邦晴による精緻な調査から。 〜、一九二五年〔大正14〕秋に来日して帝国ホテル演芸場で連続演奏 会をおこなったフランスのピアニスト、ジル=マルシェックスがラヴ ェル、ストラヴィンスキーなどとともにサティを弾いたのが、わが国 では最初の紹介だったといえよう。日本人では若き日の作曲家松平頼 則が一九三一年〔昭6〕十一月二十四日、東京・保険協会ホールでひ らいた第二回ピアノ独奏会で、サティの《でぶっちょ木製人形へのス ケッチとからかい》を初めて演奏している。 (『エリック・サティ覚え書』秋山邦晴 青土社) またここに唯一付け加えると、同じく先の坂口安吾の補註に次のように記されている。『私はお前を求める』の補註で「この曲は、日本では三潴牧子(みつままきこ)夫人によって一九二七年五月十四日に初演された。日本で演奏されたただ一つのサティ歌謡曲」とある。ここで可能性があるのは1931年の東京・保険協会ホールであるが、果たしてこうした演奏会に北園は行くことが出来ただろうかという懸念は残る。しかし少しずつこの頃からサティの音楽の演奏が日本でも始まっていたことは確かであり、無名の先駆的なピアニストが、どこかの小さな場所、少ない人たちの前でサティを弾いた可能性もあるかもしれない。さらにラジオ放送の開始(1925年)とともに、どんな洋楽レコードがかけられていたのか(1931年「洋楽鑑賞講座」)、或いは音楽喫茶の普及(「ダット」銀座十字屋裏、「都茶房」銀座二丁目、「サヴオイア」京橋、また北園の記す銀座にある喫茶店として「コロンバン」「ブラジレイロ」)なども含めて、他の資料の探索が当然のこと必要だろう。 さて、もう少し背景・周辺部分をみてゆく。まず北園においては、最初コクトオの『雄鶏とアルルカン』(1918年)などの評論、文献からフラグメント的にかなり早くサティはインプットされていたことは確かだ。そこで、日本においてサティの音楽自体が評論、或いは文献などによって最初に紹介されたのはいつ頃なのかを確認しておきたい。そしてここで、すでにサティの生きていた時期から、かなり深い紹介がなされていることに、ある意味驚く。 『詩と音楽』一九二三年五月号、小泉洽(こいずみひろし)の評論「近代自由音楽の先駆者サティとその怪奇」。(*この評論においてすでに「演奏注意書には又こんなものがある。(略)『音響なしで』とか〜、『歯痛の夜鶯』というのもある」と紹介されている。) 『音楽新潮』一九二四年七・八月号、舞踏評論家の永田龍雄「エリック・サティの動物と音楽論」。同誌、一九二五年六・七・八月号、作曲家・小松耕輔「現代音楽の先駆者エリック・サティ」。そして同誌、同年九月号、中野楽人「皮肉の作曲家エリック・サティ逝く」(『エリック・サティ覚え書』秋山邦晴) この時期(1923年)は、北園21歳、野川孟・隆兄弟に出会ったり、玉村善之助などの持っている文献から「バウハウス」などに強く引かれてゆく、まさに最初期のころであり、ここで『詩と音楽』などの興味ある誌名の雑誌を見ていた可能性はあるかもしれない。ただ決定的なインプットはコクトオの『雄鶏とアルルカン』(1918年)の原書を見た時か、或いは1928年に第一書房から出されたその邦訳、また1929年、堀辰雄訳『コクトオ抄』(「雄鶏とアルルカン」含む)厚生閣書店版にふれた時であったろう。(参考として、1930年、佐藤朔訳『コクトオ芸術論』厚生閣書店。また1931年7月『L’ESPRIT N0UVEAU』第2年第2号、北園克衛編集・紀伊国屋書店版にはサティの写真も掲載されている。まさに「夏の銀座」の頃だ。) このあたりに、まず最初に北園がサティの存在を意識し、さらに実際にレコードか或いは他のメディアによってサティの曲を聴いた原点の周辺部分があるだろう。そこで最初の問い、「北園さんは、(いつ)、どんなふうにサティを聴いたのだろう」という問いへ戻らなくてはならない。そしてひとつ種明かしをする。 まずサティとのファースト・コンタクトの印象の最も強い時期の評論集である『天の手袋』においては、主にコクトオ経由のサティ像がよく出てくるが具体的な記述はない。そこで北園のエッセイの中で、最も具体的なサティへの言及がなされている「ウェーベルン」(1959・11)(『北園克衛全評論集』沖積舎)から次の感想をひく。 私はふと、ウェーベルンの作品十一番をききながら、エリック・サティ の作品のことを思いだした。彼の作品も非常に短いものが多いが、私は 死ぬほど退屈させられたものである。彼の作品は三分間のなかに三〇分 間の空虚が装置されていたのかもしれない。かつてジャン・コクトオは 彼の評論集『カルト・ブランシュ』のなかでしきりにサティをもちあげ ているが、彼の人生や人間にたいするシニカルな態度にはたしかにある 面白さがあった。けれども、彼の作品は、私にとって退屈という大きな 穴のあいた何かであることに変りはなかった。ただそういう作品は彼の もの以外にはどこにもなかっただけだ。私の二〇代のかなたにはアルク イユという地名が一種のロマネスクなカンザシのようにチャーシューメ ンの湯気のなかにキラメイていたような気がする。たしかにサティはそ の退屈の故に魅力的であったのである。ピエト・モンドリアンの絵がそ うであったように。 これは北園のサティについての正直な感想が述べられている箇所のある、唯一のエッセイのように思われる。多くのエッセイを集めている『北園克衛エッセイ集』(藤富保男編 沖積舎 2004年)においても、サティの名は出てこない。ただ、まだ北園初期からの様々な詩誌及び『VOU』の後記などの原資料を自ら確認していないので、ここではノートのレベルとしての意味しかないが、これらの初期の詩誌(『VOU』[第一次]は省く)の目次の中にもサティについての評論だと思える題のものはない(ただ当の『MADAME BLANCHE』1934年8月発行の17号に、北園訳のジャン・コクトオ「PAR LUI-MEME」がある)。 そしてこのサティについての感想を遅蒔きながら読んだとき、ようやく一つの謎が解けたように思った。北園がサティを最初に聴いた時・処の確認はまだ出来ていないのだけれど、(彼に「日記」はなく文献のみから特定してゆくのは難しいことかもしれないが)、あれほどサティの言葉に共鳴していた詩人にしては、実際の感想があまりに少ないということの謎と、またモダニズム期におけるサティの音楽自体の受容の難しさ(レコード等の少なさ)の実例として、この北園の実感はあるのだろうということである。現在の私達は、むしろ音楽に倦んでいるところもあり、そんなときサティの旋律は清々しく新たに蘇ってくる。それはまた新たな「サティ対サティ」という事態の現れなのかもしれない。 さあ、ノートとしてはここまでとして、あとは、まじかに迫ったピットインでの、優しい音色をもつ渋谷毅氏のピアノとトリオによるサティや、『ATAK006』における電子音のなかに低く響いてくる高橋悠治氏の声が、どんなカタチでピットインの空間に現れてゆくのかを楽しみにして、十月二十五日(火)、夜を待ちたい。 ____________________ *あざみ書房ウェブサイト/宗清友宏詩集『縁速』(2001.12)紹介頁 2005年 10月 08日
piano and another day
小野原教子 倫敦に着いて3日経った。10.25新宿ピットイン。とても行きたかった。八月の終わりの京都で、主催者の奧成達詩人からはじめてそのコンサートの話を聞いた。北園克衛とエリック・サティ。渋谷毅と高橋悠治。渡英の予定をやめたくなるような。そんな企画。けれどもこうして往生際悪くそのことについてなにか書くつもりだ。厳密には、そのことについてなにも書いていないのだけれど。 神戸から持ってきたのは銀色のノートパソコン、音楽も入ってる。材質も色もそのパソコンに似ているスピーカー。耳当て部分をおおう黒い布がすっかり剥げて光るヘッドフォン。 最小限の服、最小限の本、多ガロン、もうドロン、原稿用紙のノート、呼気の刺繍、ダニエル鏡の教科書、まともなペン、まともなインク。口に入れるものは、ビニルに入れた少しの玄米、黒豆きなこ、黒胡麻ペースト、醤油、黒酢。そして、抹茶が入ったシルバーの小さな缶は「若き白」というラベルが貼られている。蜻蛉が描かれた大きめの白い茶碗。茶筅(せん)だけが新品。 同居人はインドのテキスタイルを研究しているルーシーと、物理学者でドイツ人のダーク。二人は夫婦で、生まれたばかりの赤ん坊がいる。 ヘッドフォンを使用し過ぎると自分の耳がスピーカーそのものになるので、かさばるにも関わらず普段使っているのを持ってきた。この国では物質生活という意味に限ってはレベルが落ちることはわかっている。音楽を聴くための環境はできるだけ維持したい。全体の荷物のなかで、その箱の占める割合はとてもアンバランスのように思えた。けれど食べ物と同じくらい音楽はわたしには切実だからしょうがない。そのためだけにしか使わないトランスフォーマーが何より重い。 同居人に愛想をふりまいておこうと、適当に「ブリティッシュ・ロックとジャーマン・テクノが好きだ」と、ルーシーへのメールに書いたことがある。それまではスムースにやりとりをしていたのに、彼女はわたしを迎え入れることにやや難色を示しはじめた。ああ、ええ、いい、うう、テクノミュージックは、わたし、あまり好きでないわ、むしろ嫌いだと言わないといけないかもしれない、とブリットっぽく返信してきた。 彼女はそのとき、「特にわたしの天使には」と付け加えて書いていた。「うちの子が気持ちように寝てるときに、頼むから泣かさんとってねえ」と言いたげだった。 その家の問題は赤ん坊の泣き声と日本からやってくるはずの騒音。鳴っているのか。泣いているのか。音か。耳か。 三週間ほど不在、連絡してもまた一週間、と、すぐ空白が生まれ、なんとなくメールがぎくしゃくしたりもした。けれども途切れることはなかったから、わたしはここにいる。 一緒に住む前から一緒に住んでいるようなかんじだった。なぜならルーシーはわたしの滞在を断るつもりはなさそうで、わたしもここ以外に別の住処を探すつもりがなかった。一歩外を出れば売人がうろうろしているといわれ、有色人種がその町の住民のほとんどを占め、大きなコンサート会場だけが救いのような、貧しくて、危険で、見方を考えれば ヴェリー・ロンドンな場所であるこの町ブリクストンにある一軒家の一部屋。 8年前、同じ倫敦に留学していたとき、毎月のように引っ越した。いろんなところに電話をかけまくり、いろんなことを諦めたり諦めきれなかったりしながら、わたしは勉強そっちのけでクレーム・レターをひたすら書いていた。交渉の手紙を書くことだけが、身に付いた英語力のような気がした。とりあえず今回は暮らす家がちゃんと決まっていることだけで、十分に幸せなのだ。 そしてわたしは、自分に不慣れな音楽を聴き始めた。練習だ。努力だ。どうしても大音量で定期的にとつぜん聴きたくなってしまうのは、スリッツのライブ盤、モストのファースト、ボウイの「ジギー・スターダスト」のような音楽だけれど、そしてこの町にはそんな荒削りな音の方が似合っているような気もするのだけれど。 耳を傾けていく。そのまま倒れ込むように。あるいはこれを機会に。ジャズというカテゴリに駆け寄って行ってみた。アンビエントと勝手に呼んでしまっていた現代音楽ときっといわれるらしいピアノ曲にも。この家の住人になるために。耳作り。明日もまたピアノ。 19歳のとき、神戸の海が見える静かな部屋で、流れてきたのは延々と流れる憂鬱なメロディ。嫌いになってしまったサティ。それは確か「ヴェクサシオン」という名前の、恋人のお気に入りのレコードだった。 ルイ・マル監督『鬼火』でサティはすぐ還ってきた。そういえば同じ監督の『死刑台のエレベーター』でマイルス・デイヴィスをはじめて聴いた。映画音楽はスムースだった。すぐ好きになれた。何度も繰り返され、映像ごと耳は思い出す。女優の眉も、男優の皺も、ツライというよりキレイだった。 後退していく感じのままに徹底的に変固な不破大輔のプロソディに、風の詩のように指をからませている渋谷毅のピアノ。わたしの知っているピアニスト。今回のコンサートではじめてエリック・サティを演奏されるということだ。 いつのまにか弾いていて、いつのまにか終わってる、 ピアニストのふりをしているような天才ピアニスト 2002年10月に行われた「北園克衛生誕百年記念コンサート」(新宿ピットイン)でのピアノを聴いて、わたしはこう書いたことがある。 こんなにやさしいノイズがあっていいのか。そのとき思った。人の声で音の粘土を作り象っていく高橋悠治。もう一人のピアニスト。切れたり、伸びたり、丸まったり。わたしはそれを「銀の声」と呼んでみた。 気持ちがいい からだと戦わない それなのに確かに ノイズ そんな音 (「銀の声」『gui』71号 2004年4月) 2003年12月の経堂アペルでの「高橋悠治による北園克衛」を聴いて作った詩の一節。 それはわたしには「ことばのはじまりにある「うた」」(『聲・響き・記号』東海大学出版会 1998年)という文章で読んだことのある、ピアニストのまさに「声」の体験だった。 音を音と知り、声を声と知る意識はどこにあるのか? うごきと意識の分離から、空間がうまれる。 だが、この空間には内も外もない。 身体はうごくもの、それは世界の内にある。 文字が声になり身体になった。銀の声は包まれるように響いていた。 ここでは、スティーヴィ・ワンダーの音色と同じハモニカが流れ、ビル・エヴァンスの電子オルガンが「うごいている」。部屋は静かだ。けれど熱っぽい。触れることのできない10.25の空気。追いつこうとしている耳は、その内壁に触れ跡をつけることで、「うごきたい」とねがってやまない指のようだ。 やっとジャズという風の尾にタッチしたのに。まだ十分に明るい秋のはじめの空。風を入れて部屋をもっと明るくしよう。もうすぐにこの町は暗くなるから。ライトを落として。新宿の酔狂な夜へ遠くにいて近づいて。そういえば、渋さ知らズ、入れてくるの、忘れた。よいコンサートになりますように。ならへんはずないか。アア行きたかった! ____________________ *A Stone's Throw Away * 「高橋悠治による北園克衛と足立智美による新國誠一」(appel 2003.12.17) *「記号学研究」18 聲・響き・記号(東海大学出版会 1998) 2005年 10月 07日
エレウシスの密儀
藤澤辻堂 (クラシックはJAZZに聴こえる)と主張する渋谷毅の作る呼吸とリズムは、万人にα波を起こさせてしまう drip infusion である。 渋谷の時折り引用するカーラ・ブレイも嫋やかに言う通り、もとより生命体にとって(正確ではリズムではない)のであって、人より多目の生きた細胞を持つ渋谷の吐き出す wily remark は、ヘシオドスの言うような(地面にへばりつく植物)になり切った聴衆だけが独擅的に ergriffenheit を享受できるのであって、スウェーデンボルグの説く(相応)にまことに相応しているのである。 コード進行の桎梏の中で魂を浄化させるさまは、(最高の可能性に到達するのは制限と失敗と試練と斗うことのみによる)のだと言うヘレン・ケラーの言を成就させているのである。即ち神を信ずる人間はその人生に於いて受けた傷のそれぞれにそれらをいやす優しい同情の報いが訪れるのだ——と。 「過ちに対する神の叱責は軽んじてはならない。その時神はわれらをわが子のように扱って下さる」〜ヘブル人への書〜 ハムレットも出会う outrageous fortune からの形而上学的カタルシスがやがて天鈿女命の舞う歓喜踊躍となる舞台の演者とは誰か〜。 フルトヴェングラーもワグナーを役者と見ていたのだが、ここで神の演奏するさまを渋谷も役者として演じているのであり、巧妙に埋め込まれた地雷としてのカデンツァを踏まずに通過出来ない仕掛けになっているのである。 アンサンブルの虚空での跳粱が一見行く先を見失なったかのように踊るところへ、渋谷の呼吸とリズムの登場が聴く者の脳をするりと integrate する場面に出会う時、聴衆はこの wallungen の中に入念に計算しつくされて殆ど密儀化された荘厳な戯曲の始動を否応なく予感させられて、宇宙の漆黒にひたすら身を委ねるしかなくなるのである。 ____________________ *The Official Carla Bley Web Site *詞:藤澤辻堂、曲: による「日本歴史唱歌」があい企画出版より2005.10.10発行。とりあえず31番まで。まだまだ続く。 2005年 10月 01日
妙毒の言葉と音楽。だからサティは、生きている。
萩原健次郎 私は、現在ただいま歯が痛い。もう、半年ぐらいずっと痛い。のたうち回るほどでもないが平穏にいられるほどでもない。「ああもう駄目か、ああー駄目駄目!!」とか言ってるうちに、なぜだか、痛みがすっと治まる。歯痛でない人に歯痛の感じを伝えることは難しい。それが、作曲者と演奏者の意志伝達に使われたらどうだろう。 エリック・サティの作品、『乾からびた胎児』の第一曲目の〈ナマコの胎児〉の楽譜には、演奏家への指示として「歯痛のウグイスのように」ピアノを弾くよう記されている。だいたい、ナマコの胎児が想像できない。胎性でもないだろとも思えるし、ひょっとして胎性?などとも考える。それを、歯なんてあるわけがない、いや、ウグイスに歯があるかもしれない。いや、ないだろなんて悩んでしまう。しかも、痛さは忘れ、ただ憂鬱な記憶にしかすぎない歯痛を伴って、曲を演奏しろと言うわけだから。いじわるだなあ。で、この曲を実際に聴いてみると、どこがナマコなのと言うほどに、鋭く速く、硬質なのだ。 なんとなく、モーリス・ラヴェルの『水の戯れ』に似てなくもない。ひょっとしてラヴェルへの揶揄かもしれないと作曲年を見れば、サティのこの曲は、ラヴェルのそれよりも12年後に作られている。そうか、水と戯れているのはナマコだったのかと。じゃあ、歯痛のウグイスは、なんの想像だろうかと考えた。 それはきっと、対語なんだと思う。海の底にじっとしているナマコの腹のさらに臓器の中で未生である胎児。総題が「乾からびた」だから、未生でもなく死んでいるのかもしれない。それと、いかにも生きるものの象徴のように空にいる小鳥。しかも生きて蠢く歯という道具的な痛む臓器を進行させている。 これほどに、勝手なイマジネーションが鈍感な私にして広がるということは、さては結局、サティが楽譜に記した言葉は、「理解しようとするな、自由気ままにやってくれ」ということなんだろうなと納得してしまう。 さて、今度のピットインでのライブ。「勝手気ままに」とサティ先生は、きっと指示を出すことだろう。どこまではみだして、現代の妙毒がしたたりでるか、大いに楽しみだ。「乾からびたナマコの胎児」のほうが、「歯痛のウグイス」よりも偉いかどうか。その逆かいやはや、なんとでも言える。 ____________________ *萩原健次郎「文屋」 *ナマコをはじめとする棘皮(きょくひ)動物の硬さの変わる結合組織の研究/本川達雄教授 *手話で歯痛を訴えるゴリラのココ/大学えの基礎数学 *ウグイスの鳴き声が聞けます森のコンサート *『エリック・サティ詩集』(藤富保男 思潮社 1994)より 「ひからびた胎児」 2005年 09月 23日
北園克衛「十月のノクタアン」リミックス
南川優子 私にとって、北園克衛の詩の魅力は、キラキラした視覚的イメージが短い詩の中にふんだんに盛り込まれていることだ。たとえば「午前の肖像」という詩に登場するイメージ群。冒頭の「太陽のガラスは/ニッケルの手摺に沿って光り/小さなポケットのなかの/僕のコイルは軟らかに/ほぐれてゆく朝」なんて、5行の間でよくそれだけ目を楽しませてくれるよと感心させられるが、なんと、次の連ではシシリーの海にまで飛び、踵がナフタリン球のように光るところにまで発展する。そんな多彩なイメージを使いながら、詩全体が朝の雰囲気にそって美しく流れていく様子には、うっとりしてしまう。 私自身、視覚的イメージを詩に使うことが大好きなのだが、ひとつの詩にやたら詰め込んでしまい、しかも流れを作ることが下手なものだからイメージどうしがけんかしてしまい、しまいには削ったりしている。でも北園の詩を読むと、もっともっと書き込みたい、イメージの間にさらにイメージを埋め込みたいという気分が沸いてくる。そんな欲望のおもむくまま、北園の詩を使ってリミックス・ポエムを書いてみた。題材は、イベントの十月にちなんで、「十月のノクタアン」。リミックスというとなにやら手が込んでいそうだが、一連から成るこの詩を、単に真ん中でちょん切り、後半部を連のお尻に持っていって、空いた部分に詩文を書き加えてみた(太字の部分が原文、それ以外が私が書き足した部分)。 十月のノクタアン・リミックス つひに意味なく輝く信号 ペイブメントにひびが入り プラタナスの葉は歯ぎしりのようにこすれあう タイプライタアのような足踏みが街に響き 口笛を風が飲み 過ぎた日の美しい恋は店頭に陳列される 壊れた貝殻は電話帳にはさまれ 雲が太り 月が宇宙船であふれ 電車がバイオリンの上を走る あ みんなが逃げ出した秋でした 太陽光線にアパアトの窓に 小鳥たちは飛び散るだらうか 湿った音を立てて ろうそくの火を吹こう 胸に隠した凶器が貝殻なら 指につまんだ針は何の諷刺だろう ヒューズが飛ぶ レコードがちぎれる 鍵穴がくちびるの真似をする ____________________ *原田治氏主宰の北園克衛.comで、『若いコロニイ』収録の「十月のノクタアン」をよむことができます。 *原田治ノート/ 再び北園克衛 *南川優子 詩のページ そふと
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