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2006年 01月 20日
ヌボテと抒情
金澤一志 ■一滴の林檎 まずひとつ詩をみてください。 詩人の家 月草の花が明かるく咲いてる 鎌倉のとある町はづれに 若い詩人が住んでゐた 白い象牙の鳥かごに ものいふ鳥を飼ひながら ルビイのやうな詩をかいて たばこをすつて住んでゐた たばこをすつて詩をかいて ベレをかぶつて住んでゐた ちひさなまるい屋根がある 詩人の家の煙突は 細くてながくて美しい お昼になるとベルがなり ばらいろの うすい雲がながれてゐた 新書館の「フォアレディース」にでも掲載されていそうですが、そんな最近の詩で はありません。終戦翌年の1946年に発表されたものです。書いたのは北園克衛、発表 は詩の雑誌ではなく「少女クラブ」でした。あえて言えば少女詩、ということになる のかもしれませんが、広義の「抒情詩」のうちにはいるでしょう。 北園克衛が抒情的な詩(というか、芸術的な側面を無視した詩)を書いていたこと はよく知られています。魔がさして書いてしまったとか、若気のいたりだとかのレベ ルではなく、本気で確信的に書いています。数もひじょうに多い。硬質で感情を排し た詩、いわゆるオブジェっぽい詩の作者として名を馳せている詩人であることを考え ると首をひねりたくなるかもしれません。でもぼくは抒情(ロマンチシズム)こそが 北園克衛の中心をつらぬく芯棒だと考えています。 なぜこんな詩を持ち出してきたのかというと、タイミングのことを言いたかったた めです。北園克衛にはあきらかな行動パターンがあり、なにか重要な決意をするとき、 姿勢をただすときにまず甘ったるい詩を発表しているのです。つまり、この詩が発表 されたころ、1946年の夏なのですが、詩人はなにか重大な局面をむかえていた。もち ろんそれは終戦直後の混乱からの脱出、すなわち戦後の開始というものでありましょ う。その真剣さをもっと単刀直入にしめしているものがあります。 僕はスヰスの時計師のやうにやつていくつもりである。 教訓やレクチユアはふさはしくない。いつもよそよそ しく、気むづかしく、しかも心をリキユウルのやうな 状態で置きたいのである。 1946年に詩誌「ルネサンス」に書かれた「一滴の林檎」というエッセイの一部です。 ビッときまった一文だと思いませんか。目にした北園克衛の散文のなかで、ぼくは 「一滴の林檎」がいちばん好きです。けっこう長いエッセイなのですが、どこを切り 取っても胸キュンのフレーズにあふれています。 終戦後は日本中がたいへんだったと思いますが、北園克衛にもロクなことがありま せんでした。まっさきに詩雑誌を創刊したかと思ったら円封鎖でカストリになってし まう。自由に発言できるようになったと思ったら、世代がひとつ繰り上がっておぢ軍 団にはいってしまっている。なによりお金がありません。リトルマガジン以外に表現 の手段を考えたことがなかった北園克衛にとって、雑誌を出すことができない状態は サイアクです。まさに踊れないダンサー状態。苦労が続くなかで気をとりなおし、ちゃ んとやるんだ、やらなきゃいけないんだと決意したのが「一滴の林檎」なのです。こ の文章はこんな風に終わっていきます。 あかるい希望がたえず現はれては消えていく。その あるかなきかの陰影に影響されながら、軽いポオス レンのパイプをくゆらせて鮮麗な柿の若葉にむかつ てゐると、十年間の疲れがしみじみと感じられてく る。(略)たとへば極地に降りたつたドクトルアム ンゼンのやうに、新しい知性の陵角をのぞみながら、 しだいにそれが僕のイデエに共感しつつ近づいて来 るのを、なかば醉ふやうにかうしてあることの悦楽 を、全身をもつて経験してゐるのである。 カッコいいじゃないですか。こういう文章は太陽がカッと照った昼間に書けるもの ではありません。初めて「一滴の林檎」を読んだとき、ぼくは人間には夜とか闇とか 孤独とか雨の日が必要なんだ、と思いました。 ■北園克衛=ラヴェル説 「スイスの時計師」ということば、これは北園克衛のことばではありません。あの 「プラスティック・ポエム」のマニフェストにもリシツキーの台詞を取り込んだ北園 克衛は、実は引用の名手でありました。さすが寺山修司の師匠!(サンプリングのセ ンスは師弟ともにバツグンですが、リミックスの気品では師匠に軍配があがるように 思われます) 《スイスの時計職人》と言ったのはストラヴィンスキー、言われたのはモーリス・ ラヴェルです。無駄をきらい、洗練(節約ともいう)の音楽家として知られるラヴェ ルは、気難しそうな想像に反して、やさしさと気配りをもったおだやかな人だったと 聞きます。 北園克衛をほかの芸術家にたとえたらだれになるだろう?と考えたとき、ぼくが思 いうかべるのがラヴェルなのです。次点が未来派のルッソロあたり。多芸というとこ ろからよく比較されるコクトーはぜーんぜんあたってないと思います。あっちは今を ときめく秘密結社の親分ですよ。サティともよく比較されますけども、それは北園克 衛がサティにあこがれていて、いろいろなところで名前を出したり引用したりしてい るから現れる表面的な印象でしょう。アルクイユしかり、『天の手袋』の《Cher Ami! 最後まで譲ってはならない》しかり、あと「消えていくサラバンド」とか「ジャ ズのための三つの短詩」「ソルシコス的夜」なんて全部サティの曲名のつけかたをま ねているようにみえます。 北園克衛には、サティの「新しさ」がまぶしく映ったのではないでしょうか。とく にフランスっぽい芸術優先の気骨に(サティにはスコットランドの血が流れてはいま すが)素直なあこがれを抱いたのだと思います。ことばの視覚化から音楽化のプロセ ス、なーんていう小さなことではなくて、そこにあって息をしている、という新しさ のエロスに対してです。 ラヴェルもまたサティの「新しさ」に心うたれた人でした。後年にはサティやコク トーにめちゃくちゃな皮肉を言われる事態にも陥りますが、それでもラヴェルはサティ が好きだった。どんな経緯があっても心をひかれた事実は変わらない、自分の関心に だけは最後まで忠誠をつくす、ラヴェルと北園克衛にはそんな頑迷さがだぶってみえ ます。ラヴェルがサティにひかれ続けた構造は、北園のそれとよく似ていたのではな いかしら、と思えてなりません。 日本では、1925年にはじめてラヴェルの曲(「クープランの墓」)が日本人によっ て演奏されたといわれています。またこの年にはフランスの音楽家ジル=マルシェク スが来日し、帝国ホテルで「クープランの墓」「雨のガスパール」とともに、サティ やミヨーの曲を演奏したそうです。(船山隆、「音楽芸術」1975年6月号)実際には、 いつ北園克衛がサティの曲を聴いたのかはわかりません。もしかするとずっと後年ま で機会はなかったかもしれません。でも、曲を聴かずに北園が「サティが好きだ」と 思ってもぜんぜんふしぎはありません。北園はいつだって「新しさ」が投影される存 在、つまり「ヌボテ」そのものを愛していたのですから。 ■高橋悠治の抒情 ぼくはバブル世代で、西武・セゾン文化のドまんなかを泳いできました。1980年代 のキーワードのなかには、どーんと大きく「エリック・サティ」があります。 もともとはブライアン・イーノが導火線だったと思いますが、いつのまにか「家具 の音楽」(お金がないサティのピアノ弾き時代に、カフェの客が自分の演奏になど耳 を貸さない、つまり自分のことを家具と同じようにしかみていない、ということへの 諧謔が反映されているという意見に大賛成です)が「環境音楽」の先達と定義された から、流行したのです。当時ぼくはジャン・ジョエル・バルビエのレコードと、ペン ギンカフェ・オーケストラのレコードを一緒に買ったことをおぼえています。みんな その程度の認識だったから、プロの音楽家がいろんなところでずいぶん怒ってました。 イーノ、環境音楽、ケージ、そのあたりがアートの流行にとりこまれて、二十世紀 音楽そのものが見直された時代です。ライヒとかブーレーズ、シュトゥックハウゼン。 いやーかたっぱしから聴いてました。めちゃくちゃです。ぼくは瀧廉太郎や山田耕作 までいっちゃいました。流行は民族音楽とか70年代のコンクリートにまで及んで、 「チベットの鐘」というエコー満載のレコードをヘッドフォンで聴いていたら三半規 管破壊されて気持ち悪くなった、なんてこともありました。そういえば、CDからMP3 の時代になってレコード屋さんの袋を持ち歩くこともなくなりましたね。あれは品の いいファッションアイテムだったな。 80年代的な音楽キーワードのなかには、もちろん高橋悠治という名前が燦然と輝い ているわけです。でも、ぼくが聴いたコンサートでは、高橋悠治はいつもショパンと かバッハを演奏していたように思います。なんであの選曲なんだろって思いました (みんな言ってた)けど、いまならうっすら理解できるような気がします。 武田明倫によれば、1970年の万博「スペース・シアター」で、高橋悠治は「作曲家 の母になりたい」と発言したそうです(「音楽芸術」1971年7月号)。発言はこう続 きます。 人類の歴史はいつの日にか終わり、異なる知性が人 類の存在にとって代わるときがくるだろう。そのと き、その新しい知性が音楽を作曲できるように、そ の道を開いておきたいと思うのだ。音楽とは抒情的 (emotional)なシステムであり、それはすばらし い存在なのだから。抒情的なシステムであるという ことは、それがひとつのシステムとして自己防衛本 能をもつものであると同時に、外の世界に対して開 かれているということなのだ。 また後日、高橋悠治本人によって、後半部分が修整されました。 抒情的であるとは、外の世界に関心をもつことがで きる、ということなのだ。 武田明倫はこう結論付けます。 高橋悠治の「演奏」は「抒情的なシステム」の存在 を前提として成立する。あるいは、「自己防衛本能」 をもち、同時に「開かれた」存在である、そうした 作品のみが、彼の「演奏」という創造行為を可能に するのだ、といってもよい。そのような作品におい て、高橋悠治は自在なのだ。 どうです、膝を打ちたくなる考察です。高橋悠治がバッハやベートーヴェンを演奏 する理由がなんとなくわかりますでしょ。同様に、北園克衛を演奏するという行為に ついても。 さて、今回の高橋悠治の「KitKat Mix」(正確には「KitKat Mix--北園克衛の4つ の詩−「記号説抄」「熱いモノクル抄」「送行」「消えていくpoesie」(computer sound file) )」ですが、初演ではありません。2003年の暮れに開催された「高橋悠 治による北園克衛と足立智美による新国誠一」(経堂・アペル)が最初でした。 2002年の「北園克衛生誕100年記念コンサート」から今回の「高橋悠治、渋谷毅に よる『PLAYS 北園克衛・ERIK SATIE』」までの三年間をかけて、高橋悠治は北園克衛 の存在を抒情的なシステムとして把握し、取り込んでみせた、ということになります。 最初の「100年記念コンサート」では、高橋悠治は直前に欠席したわけですが、不在 ゆえに存在感が際立ち、2005年まで関心を継続させる伏線となっていたことはまちが いありません。欠席はしたけれども籍は置いていたのです。 欠席から出席まで、ピットインの両端をつなぐ線のうえに経堂の小さな会場がある ことはとても重要です。北園克衛という素材を取りあつかうためのスタンスが見えて くるからです。2003年の「高橋悠治による北園克衛と足立智美による新国誠一」の企 画者は松井茂。足立智美ともども若い世代です。ピチピチです。彼らの世代は北園克 衛の機能主義的な側面を評価する一方で、日本語で書かれた従来詩であるかぎり、余 分をかかえている、重さがある、と考える傾向が強いようです。だから、足立智美が 北園克衛を素材とすることなどできるはずもなかった。おたがいの「自己防衛本能」 がバッティングするのです、たとえばATフィールドのように。日本の詩作品から選ぼ うとするなら、要素を音韻的に抽出した新国誠一こそ足立智美の「演奏」にふさわし い。というより、ほかには候補すらなかったはず。見方をかえると、高橋悠治の抒情 的なシステムは北園克衛「すら」取り込むことができた、ということになるでしょう。 高橋悠治は、シェーンベルクら西欧の音楽家によって徹底的に近代化された二十世 紀音楽のなかに、抒情(前近代的ということではなく)を加えることで二十一世紀音 楽のヒントを模索しているのではないかと思います。それには北園克衛の日本的な、 日本語的な微妙な重さが、むしろとても具合のいいものなのかもしれません。 #
by gui_info
| 2006-01-20 20:19
| エッセイ:金澤一志
2005年 12月 20日
ある午後のヴェクサシオン
岡崎英生 音楽はそれが鳴り響いている現場に、その日その瞬間に生成し消滅しているものと不可分の関係にあるのだから、運悪く聴き逃してしまった場合にはもはや絶対に取り返しがつかない。ということは重々わかっていても、どうしてもその現場に足を運ぶことができないということはやはりある。2005年10月25日に新宿ピットインで『高橋悠治、渋谷毅によるPLAYS 北園克衛・ERIK SATIE』というコンサートが開かれたときも、あるやむを得ない事情から私はどうしてもそれを聴きに行くことができなかった。 それで、くやしまぎれにあれこれと考えているうちに思い出したのが、20年ほど前、青山のとある会場でサティ弾きとして名高い島田瑠里さんのピアノでサティの「ヴェクサシオン」を聴いたときのことだ。ごく単純な短い旋律を作曲者の指定によって840回繰り返して演奏するというこの曲は、ジョン・ケー ジの「4分33秒」の対極にあるような作品として名前だけはよく知られているが、実際に演奏される機会はほとんどない。この曲を収録したCDも、私の知る限りでは島田さんのものが1枚あるだけで、それもわずか12分程度の演奏だから完全な演奏とはいえない。ところが、青山でのそのコンサートのときは島田さんが840回を最後まで完全に弾き切ったのだ。 なぜ840回なのかということは、特段問題とするには当たらない。とにかく840回なのである。けれども、それを実際に繰り返すときには演奏家自身に回数を数えながら弾けと要求するのはあまりにも酷なので、いま何回目にさしかかったかをカウントする介添えの人が必要になる。青山でのときは島田さんの友人や知人たちがカウント役を務めることになり、その一人として選ばれたのが前述の新宿ピットインでの高橋悠治さんと渋谷毅さんによる北園サティ・コンサートを企画した奥成達氏だった。 そのころ、私は奥成氏に誘われて、いまはなくなってしまった渋谷の「ジァンジァン」に三宅榛名さんのコンサートを聴きに行くようになり、それがきっかけとなって音楽の聴き方がそれまでとまったく変わってしまい、三宅さんや高橋悠治さんのコンサートがあるたびに足を運ぶようになっていた。故武満徹が渋谷のパルコ劇場で毎年開いていた現代音楽のイベントでジョン・ケージのレクチャーコンサートを聴いたりしたのもそのころのことだ。もちろん、何が何やら、全然わからなかったのだけれど。 で、ある日、奥成氏がサティの「ヴェクサシオン」が演奏されるから聴きに行こうというので、私はほとんどふたつ返事で一緒に行くことにしたのだったと思うが、いまや曖昧になりかけている記憶では、それは9月の、まだ残暑がしつこく続いていた日の、午後早い時間だったような気がする。会場は音楽専用のホールではなく、大きなビルのだだっ広いエントランスのようなところだった。そこに臨時にピアノと椅子が並べられ、聴衆が着席して演奏が始まるのを待っていた。やがて島田さんが登場し、「ヴェクサシオン」の第1回目を静かに弾き始めた。それはいかにもサティ的な、ある種の物悲しさをたたえた美しい旋律だった。 しかし、その基本のピースはごく短いものなので、弾き始めたかと思うと、もう終わってしまう。そこで2回目、同じ旋律がふたたび演奏され、それもまたたちまちのうちに終わってしまい、3回目、4回目、5回目……。客席ではそのたびに誰かが立ち上がり、鍵盤に向かって演奏をつづけている島田さんのそばまで歩いて行って、数字の書いてあるカードをそっとめくる。そして、自分の席に戻ってきて、演奏にまた耳を傾ける。 奥成氏も何回目だかにカードをめくりに行き、「ヴェクサシオン」の演奏はそんなふうにして延々と続いていったのだけれど、何しろ、ひっきりなしに客席とピアノの間を人が行き来するのだから、時には椅子がきしむし、床には靴の音が響いたりもする。加えて、おそらくそうしてもいいということになっていたのだろうと思うけれど、演奏の途中で会場から出ていってしまう人もいるし、逆に、何だか変なことをやっているぞ? という感じで入ってきて、新たに聴き 始める人もいる。 だから、そのたびに会場の扉が開いたり閉まったりして、青山通りの雑踏の気配が会場にどっと流れ込んできたり、それが急に遮断されて、また静かなピアノの音だけになったりする。要するに、普通のクラシックのコンサートとはまるで違う。ところが、どういうわけかその日はそれがいっこうに不都合でも不快でもなく、会場内に響く遠慮がちな足音も、青山通りの騒音も、何もかもが島田さんの弾くピアノの音と混じり合い、親和して、いわばその全体がひとつの音楽としてそこに鳴り響いていたのだ。 それは心地よく開放的な、思わず微笑を誘われてしまうような性質の音楽だった。基本となっているのが物悲しく美しい旋律なので、それを展開してもっと長大な、もっと堂々たる表現を行うこともできそうではある。けれども、サティはそうしない。彼は完成された作品や完全をではなく、むしろ断片や不完全を志向する。840回という繰り返しはそのためのもので、この数字自体には意味はない。それはたぶん、既製品の便器に「泉」と命名するようなセンスで選ばれている。 別の言葉でいうと、「ヴェクサシオン」ではその物悲しく美しい旋律がある種の意味を持ちそうになった瞬間に、その意味が棄却され、音楽がそもそもの始まりへと折り返していく。絶え間ない棄却と、絶え間ない始まりへの折り返し。そこにデュシャンならばアンフラマンス(超薄膜)と呼ぶだろうようなものが発生し、人を微笑へと誘う。人によっては微笑しながら、そのひっきりなしの折り返しに北園克衛の詩句のありようを重ね合わせたりもするかもしれない。 島田さんがあの日、840回を弾き終えるまでにどれぐらいの時間がかかったのかはもう記憶にないが、いずれにしてもそういう音楽が鳴り響いている現場に居合わせることができたのは、きわめて幸運だったと私は思う。しかし、初めにもいったように、いろいろな要因が重なってそういう幸運が目の前からするりと逃げていってしまう場合も多々ある。それは人の生に常に意地の悪い妖精のようにつきまとっている小さな不幸せとでもいうべきもので、私たちは折にふれて種々の悪さを仕掛けるこの悪戯者の妖精と縁を切ることは決してできない。 ____________________ *「Emma」1980.8.6(奥成達資料室より) p64 「同一のフレーズを840回も弾くというエリック・サティ作曲の「ヴェクサシオン」に挑戦した、ピアニストの島田瑠里さん。午前11時から12時間弾き続け、見事に成功。かけつけた友人達と祝杯を傾けた。黒いドレスが島田さん。(7月11日、青山・ガスコン) #
by gui_info
| 2005-12-20 21:38
| エッセイ:岡崎英生
2005年 11月 28日
10.25のライブ当日以前にこのブログにお寄せいただいた原稿をまとめて、小さな冊子にしました。お書きいただいた10名のみなさまに一刷を、ほかのgui同人のみなさまに二刷をお送りしました。印刷 by エプソン家庭用プリンタ。紙の選択や表紙のレイアウトなどは気紛れに変えていますことをご了承ください。
開演後篇をぜひ作りたいです。当日ご覧になったかたなれなかったかた、guiの同人であろうがなかろうがいずれもかまわず、お寄せいただけたらうれしい。 #
by gui_info
| 2005-11-28 20:45
| メモ:四釜裕子
2005年 11月 01日
感想を、お寄せください
奥成達 コンサート、おかげさまにて盛況に終りました。聴衆はおよそ130人余といったところか。予約入場者数95名。ピットインの椅子席は80ぐらいだから、あとは補助椅子、立ち見の人になる。 顔ぶれは見知った方々が多く、「VOU」の先輩、詩人の清水雅人、写真家の岡崎克彦さん。いま紀伊国屋書店の「ifeel」で「戦前の紀伊国屋書店」の連載をされている石神井書林の内堀弘さん。次号(No.35)には、北園克衛が登場してくるはずである。女性詩人3人組で、平田俊子、筏丸けいこ、岩崎迪子さん。北園俳句に興味津々のようだった。國峰照子さんと一緒に中本道代さん。藤富保男さんと一緒に「フランス六人組」の演奏で知られるピアニスト・神武夏子さん。いつも北園のコンサートには必ず顔を見せてくれる亀倉雄策さんのチーフ・デザイナーだった水上寛さん。なんと10人の友人たちを誘ってやって来てくれた。詩人の菊池肇さん、中村恵一さん。BUSバンドのアイドルだったきよみちゃん。入口でCDと一緒に「gui」のバックナンバーを販売していただいた八巻美恵さん(guiは一冊1000円で3冊売れました)。葉山の友人の音楽プロデューサー、岩神六平さん。チラシ配りやブログでお世話になった四釜裕子さん。「ふらて」のママ・ヒロミさんと常連のお客さんたち。北園克衛の造型詩を集めた『カバンのなかの月夜』(国書刊行会刊)の著者、金澤一志さん。渋谷毅の「エッセンシャル・エリントン」のプロデューサーの望月由美さん。電通の中島興三さん。かつて賀陽亜希子さんの『フランス詩人によるパリ小事典』の装幀をされていたデザイナー・田渕裕一さん。青山学院大4年生・日本文学専攻の蓮見勲さん。下北沢「LADY JANE」の大木雄高さん。 もっとたくさんの人々とご挨拶したはずだが、失念してしまった。小中陽太郎さんも有難うございました。 コンサート終了後、酒場「ふらて」で、吉田仁、高橋肇、岩田和彦、奥成繁のguiメンバーと、かつての新宿の酒交、沢田節子、加藤恵理子、多田佳代、山村千恵、斉藤茂男さん、それから「プレース・エバン」のママ、小田悦子さんたちと、ささやかに打ち上げをした。 12時をまわり、みんなが引き上げた後、写真家の北島敬三さんと2人きりになり、今夜のコンサートはどうでしたか?と感想をたずねた。「高橋悠治さんの凄さというものを、あらためて目の当りにすることができて大感動した」といわれた北島さんは、相当の音楽ファンだったが、渋谷毅トリオのドラム・外山明のイントロにおけるシンバルワークに、一瞬、富樫雅彦を彷佛とさせるものがありゾクッとさせた、と語るジャズ通でもあった。「でもイントロのところだけだったけどね」(笑)とも。 「ふらて」はいつも閉店2時なので、バーテンのウップはさっさと帰ってしまった。しかし、ママのヒロミさんも入ってきて、音楽談義はいっこうに終らず、とうとう3時過ぎまで盛りあがってしまった。楽しかった。 考えてみると昔は毎晩どこかの酒場でこうやって過ごしていたんだなと思い出し、懐かしい気分になった。やっぱり新宿は、いつやって来てもいいな。 一寸努力をすると、こんなに楽しい一日が過ごせるということをあらためて確認をした。いまおかげで疲労困憊しているけれど。 さて、今度のブログのエッセイは皆面白かったけど、宗清友宏さんの「ノート」には感動しました。 コンサートの感想は、むしろ当日おみえになった皆さんにぜひお聞きしたいものです。「コンサート後篇」というエッセイをぜひ寄せて下さい。楽しみにしてます。 ____________________ *紀伊国屋書店「ifeel」 *神武夏子さんのホームページ *BUSバンド *『カバンのなかの月夜 北園克衛の造型詩』金澤一志 *JAZZ SHOPPING(試聴可)/「エッセンシャル・エリントン」渋谷毅 *LADY JANE *photographers' gallery(北島敬三さんらの共同運営ギャラリー) #
by gui_info
| 2005-11-01 10:12
| エッセイ:奥成達
2005年 10月 26日
第一部
高橋悠治さんによる ピアノソロ(サティ) KitKat Mix 北園克衛のカッパ俳句朗読×渋谷毅さん(p) 第二部 渋谷毅トリオ=渋谷毅(p)、望月英明(b)、外山明(ds)による演奏(サティ) 終了後「こんなもんだ」by渋谷さん→詳しくはこちら 高橋悠治さん(p)加わりセッション 詳細は追ってご報告します。(四釜) #
by gui_info
| 2005-10-26 23:55
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